日本最大級ビジネス展示会
誕生ストーリー
1993年入所。愛知万博の誘致や経理業務に携わったのち、会員サービス部門にて新たな商談会や融資制度を企画。2006年にはメッセナゴヤの立ち上げに携わり、事業拡大に尽力。
現在は産業振興部長として、主に製造業支援やスタートアップ支援等の事業全体を束ねる。
※プロフィールは2024年取材時のものです。
Introduction
「メッセナゴヤ」といえば、日本最大級の異業種交流展示会で、全国から5万人のビジネスパーソンが足を運ぶ、愛知・名古屋を代表する巨大ビジネスイベント。今でこそ有名な展示会となったが、そのメッセナゴヤが文字通り<影も形もなかった>ところから、ブレない軸をもって軌道に乗せていったストーリー。
「そんなことできるの?」厳しい声も糧に
始まりは2006年4月、佐藤が名商の会員サービス部門に所属し、中小企業向けの新しいサービス事業の企画に取り組んでいたころ。当時、名商の副会頭であった栗岡完爾氏(トヨタ自動車相談役(当時))が、2005年の愛知万博の理念継承事業として、新たな展示会の立ち上げを提唱し、名商内でプロジェクトが始動していた。「そんなことが始まるのか」と他の部署から眺めるように見ていたところに突然、その「メッセナゴヤ」の実行を推進するチームへの異動が告げられた。開催は半年後に迫っていた。
待ったなしの課題は、出展企業を集めることだった。目標数250社に対して、開催まで半年という時点で決まっていた出展企業は20~30社ほど。必死の出展勧誘の営業が始まったが、いくつもの壁があった。
「商工会議所が展示会をやることに対して、懐疑的な反応はありました。すでに決まっていたメッセナゴヤのコンセプトは、特定の業界に絞らない総合展示会。しかしそのころ、総合展示会よりもターゲットを絞った専門展がトレンドになりつつあり、さらに言えば、ライバルと軒を連ねる展示会に出展するよりも、自社独自でイベントを開催したほうが効率的だ、という認識も広まっていました。また、名商どころか、他地域の商工会議所にも、大規模な展示会を主催している例はありません。『本当にそんなことできるの?』と厳しいことも言われましたね」
企業によっては、年間計画で展示会に充てられる費用が決められており、「開催まで半年というタイミングで声をかけられても、とても無理だ」という話もあった。しかし、この厳しい状況のなか、むしろ学びを得て、売り込みの軸を立てた。
「商工会議所という存在やサービスは、民間企業とは異なる部分が多いため、あまり他と比較されずに利用いただけることが多いんです。ところが<展示会>となると、途端に数多ある他の展示会と比べられるのを実感しました。では、『メッセナゴヤとは何か』、『どんなメリットがあるか』を明確にしなくてはいけない。メッセナゴヤの強み・弱み、そして提供できるメリットを整理できていれば、『メッセナゴヤとはこういうもので、御社のためにこういう価値が提供できますが、いかがですか?』と相手に問うことができます。そういう踏み込んだセールスを実践できたのは、大きな前進でした」
これまでの業務で経験のなかった、まさに「どぶ板営業」ともいえる一社一社への着実な営業が実を結び、なんとか出展目標をほぼクリアすることができ、第1回の「メッセナゴヤ2006」は無事に形となった。
展示会の成長、そして新たな壁
無事の終了をホッとする間もなく、すぐに来年の準備が始まる。成果は次の営業の武器となり、第2回の2007、第3回の2008と出展企業数は増えていった。規模は順調に拡大していったが、厳しい声もたくさんあった。出展企業の期待に応えるため、ヒアリングと試行錯誤を繰り返しながら、メッセナゴヤは徐々に展示会として成熟度を増していった。第3回目の時に、印象に残る出来事がある。
「会期最終日に、初回から3年連続で出展いただいたある企業のブースを訪れ、担当の方に『どうでしたか?』とお聞きしました。いつも厳しいご意見をいただける方だったのですが、初めて『メッセナゴヤ、合格!』と一言。ものすごくうれしくて、そのシーンは今も私のなかに深く刻まれています。多くの出展企業から一定の評価をいただけた実感がありました」
ところがその直後、2008年秋にリーマン・ショックによる世界的な経済停滞が始まる。ほかの展示会も中止や規模縮小という話が相次いだ。メッセナゴヤ2009の開催も危ういのでは、と噂されているのも耳に入ってきた。そのような状況下だからこそ、出展募集の説明する際にはこう呼びかけた。「(佐藤)今年も<絶対>開催します。どうであろうと我々はちゃんと開催しますから、皆さん一緒にやりましょう!」と出展者の不安を払拭するよう伝え続けた。結果、リーマン・ショック直後の展示会としては異例なことに、出展企業数は前年より増加した。
そして翌年のメッセナゴヤ2010では、初めてポートメッセなごやの建物3館をすべて使用する規模に到達。当時、名古屋で最大規模とされた展示会やイベントとも肩を並べ、大きなインパクトを与えた。
キーマンからの学び
当時、メッセナゴヤを提唱した当時の副会頭である、栗岡完爾氏とも多くの行動を共にした。30代半ばだった佐藤は、その後の財産となる多くのことを学んだという。
「トヨタ流の“現地現物”の精神を目の当たりにしました。メッセナゴヤと同じポートメッセなごやで開催される、ある展示会の視察に同行したときのこと。会場の前で待っていると車で到着され、さっそく会場内へ入っていくかと思いきや、『まず駅へ行こう』と。歩いていくその道中で、階段がどうで、ここは屋根がない、ここはこうしようなど、お客様の目線で導線を確認し始めたのです」
さらに、
「人をつなぐ仕事もすごくスピーディでした。私が『こういう方とお会いしたい』という相談をすると『わかった』と言われて、私がオフィスに戻る移動中に、すでに『話を通しておいた』という連絡が入っているんです。もたもたしていられない、と私もすぐに動きましたね」
普通なら接することのない地元経済界のキーマンから、仕事のやり方を間近で見て、聞いて、学べる。それは名商職員にとって、計り知れないほど大きな成長のきっかけになる。
展示会とは「本気の営業ツール」
メッセナゴヤを展示会の部分だけで切り取ってはいけない。
「出展される企業にとって、メッセナゴヤはあくまで営業活動の一環なのです。つまり展示会とは<本気の営業ツール>です。2回目、3回目と出展してもらうには、こちらも本気で応え、成果を感じてもらう必要があります。そこで、出展前の集客からブースづくり、出展後の営業フォローのやり方までメッセナゴヤは寄り添うと決めました」
そのサポートプログラムを数年かけて組み立て、現在も年間を通した勉強会「メッセくん倶楽部」として続いている。
また、名古屋経済の活性化のためにも、メッセナゴヤは「この地域の人たちだけで盛り上がるのではだめだ」と考えた。国内の他地域や海外からも次々と出展・来場され、交流してもらいたかった。
「名古屋にある、各県の事務所はほとんど営業に回りました。地元への企業誘致を課題としている担当者に、地元の魅力のアピールの場として、地元企業を連れてメッセナゴヤに出展しないかと持ちかけました。そのような海外や他地域の企業・団体への営業も実を結び、多くの出展をいただけるようになりました。現在も、他地域からたくさんの出展者や来場者がメッセナゴヤにお越しいただいています。そんな皆さんを見ると、感謝の思いとともに、『メッセナゴヤの名古屋への経済効果はすごい』と改めて実感しますね」
メッセナゴヤは、今年で19回を数える一大事業となった。現在は800社を超える出展、5万人を超える来場がある。出展企業の募集も、今では開始1時間と待たずにブースが売り切れてしまうほどの人気展示会に成長した。メッセナゴヤの会期と合わせて、さまざまな関連イベントも開催されており、総合展示会というアイデンティティのもと、これからも企業のニーズに応え、地域に大きなインパクトを与えていく。
ビジネスマッチングイベントの立ち上げ(会員サービス部)
当時、会員数増強の武器として、業種の区分けなくすべての企業が享受できる会員サービスを模索していた。そして、まだ名商のサービスに<ビジネスマッチング>という言葉がなかった2005年に、名商の会員同士のニーズを調整して商談の場を提供する「アライアンス・パートナー発掘市」という商談事業を立ち上げた。当時、愛知県や他地域の商工会議所で行われていた「受発注商談会」「ビジネス交流会」とは形式の異なるもので、受発注者の上下関係ではなく、よりフラットな情報交換・アライアンス(企業間の提携)を目的とし、しかも1週間という開催期間にこだわった。1日だけの開催では、都合の合わないビジネスパーソンも多いからだ。現在では、愛知県内22商工会議所や他県の会議所も巻き込み、規模を拡大しながら開催している。